本日も順調に誤作動中

ASD.1980年生まれ東京都在住。

生まれつき慢性的な見えない障害の当事者は、障害がない者と判断され、健常者と同列に扱われることで、過酷な状況に置かれている。しかし誰もそのことに気づかず、本人は原因不明の生きづらさを背負う。その結果、自暴自棄になったり、他人を攻撃したりすることも起こる。しかし、そうしたことをしても自己責任として健常者と同じ責任を求められる。生まれたときからハンデがあるのに、みんなと「平等」に扱われるという不幸。

確かに、見えない障害は見えない分、他の人には理解されないという大変さがある。
最近、ナルコレプシーという症状を知った。
日中急に眠くなってしまう病気だ。
これも、見えない病気だ。
周りからは「日中寝やがって、あいつは怠けている<`ヘ´>」とレッテルを張られやすい。
だからこそ、自分は障害を持っているんだということを自分自身がよく分かってあげることが大事だ。
他人には理解されないかもしれない。怠けているとか、おかしいとか言われるかもしれない。
だけど、これが見えない障害なんだ。そして、自分はその障害を克服するために、一生懸命努力をしている。
見えない障害に対して、努力をしている。
それは、周りの人から見れば、自分の努力は滑稽に映るかもしれない。
見えない敵と戦っている姿は、傍から見たら滑稽なやつだと思われるのは仕方のないことだ。
でも、中には、見えない敵と必死で戦っている人に想像力を働かせてくれる人もいる。
それはありがたいこと。
また、自分と同じく、見えない敵と戦っている人を自分は大切にしたいと思う。

見えない敵と戦うのに大変なのは、見えない敵について語る言語がないということだ。
ただ、つらい苦しいという表現でしか、まずは語れない。
でも、それだけだったら、他人にはいったい何がつらいのか、何が苦しいのか分からない。
分からないと、何をどう対処していいのかも分からない。
「どうしてほしいんだ?」と言われるけれど、
見えない敵と戦うことを強いられた者は、その問いかけはまるで自分自身が責められているように聞こえる。

親に「どうしてほしいんだ?」と言われたことがある。
今なら、例えばこうしてほしいということができる。「胃腸が弱いから、胃腸によい料理を配慮してくれ。乳製品と卵と牛肉はダメだ。食べる前に胃酸を出すために、パセリを用意してくれ、それからポッカレモン水がほしい。魚に含まれるDHA・EPAが不足しているので、魚が食べたい。」などなど。。
しかし、鍛えていて筋力もある程度しっかりしていて、それなりに元気な自分が、胃腸が弱い(リーキーガット)であり、それが生きづらさの要因の一つとなっているなんてことを、当時の自分が知る由もない。
むしろ、牛肉や卵料理がでたら、親が作ってくれたんだからと美味しくいただくのが常である。

そして、厄介なのは、自分がいくらリーキーガットだと言っても、「食べ物を選り好みするな」とか、そういうことを言いだす人である。そういう人がいることは仕方のないことだ。いちいちがっかりしていてはいられない。例えそういう、無理解に基づいたことをいう人が身内の人間だとしても。

見えない障害というのは、理解されない。しかも、リーキーガットは、生まれてこの方リーキーガットなので、何がどう困難なのかということがいまいち分かっていないので、説明がしづらい。
生まれつき慢性的な見えない障害の当事者は、障害がない者と判断され、健常者と同列に扱われることで、見える障害者以上に過酷な状況に追いやられている。
そのことに気づかず、生きづらさゆえに自暴自棄になったり、他人を攻撃したりするのは不幸だ。
自分が生まれつきの見えない障害者であることを自覚し、その障害を乗り越えるために必要なものは、知だ。
だからこそ、教育は大事だと思う。
自分は生きづらさの闇をずっと徘徊してきたけれど、その闇をかろうじて照らしてきたのは、受けてきた教育だったと思う。
知がなければ、「自分はなんか生きづらいけどこんなもんだろう」とことで諦めてしまったと思う。
親は、自分の見えない障害を見つけてはくれなかったけれど、親は僕に教育の機会を与えてくれた。
それが自分が生き延びる最後の頼みの綱となっていたのは、間違いのないことだ。

だから自分は教育でお返しをしたいと思う。

 

最後にもう一度

生まれつき慢性的な見えない障害の当事者は、障害がない者と判断され、健常者と同列に扱われることで、見える障害者以上に過酷な状況に追いやられている。
そのことに気づかず、生きづらさゆえに自暴自棄になったり、他人を攻撃したりするのは不幸だ。
自分が生まれつきの見えない障害者であることを自覚し、その障害を乗り越えるために必要なものは、知だ。
だからこそ、教育は大事だと思う。