本日も順調に誤作動中

ASD.1980年生まれ東京都在住。

自分の中に立ち現れるニヒリズムへ

自分の中に立ち現れるニヒリズム

「この世なんて所詮、無価値だ」と思うことで、一時の安心を得ていた頃がある。引きこもっていた頃のことだ。
この世の全てを無価値という名のレッテルを張って、とりあえず安心したいと思ったのである。
人間は、よく分からない未知のものと出会うと不安になるので、とりあえずのレッテルを張ることで一時の安心感を得ようとする。それは人間の本性である。大量の情報を正確に理解しようとすることができるほど、人間の情報処理能力は高くはない。だから、適当なレッテル張りをすることで、それ以上その対象について考えないで済ませる。
しかし、そのレッテル張りも一時凌ぎのものである以上、そのレッテルが正しいものなのかどうかは検証する必要がある。にもかかわらず、多くは検証もしようともしない。なぜなら、一度自分で張ったレッテルを張り直すことは、自分の間違いを認めることであるからである。また、レッテルが間違ったと分かったら、今度は別のレッテルを張り直さねばならなくなる。それはとても面倒なことだ。だから、人は一度張ったレッテルが正しいかを検証することは少ない。さらに、そのレッテルを盲信し、自分のレッテルは正しいのだという思い込みを強化させる。そしてその思い込みの正しさを補強する証拠や情報ばかりを集め出す。
そして、レッテルへの信奉を深め、エスカレートし、暴走し、揚句の果てに他者を攻撃するようなことになることもある。
このようにレッテル張りを放置しておくことは危険を伴う。
ストンとはまりやすいレッテルほど警戒が必要だ。
例えば、自分の生きづらさをうまく説明するキーワードは、世の中にたくさんあり、それらは、今までの自分の人生をまったく違った角度から語り直させてくれる威力がある。それだけに、出会った本人が「自分はこれだ!」と、ストンとはまりやすい。
そうした言葉には、一定の共通点があって、どれもがみな「あなたは本当は被害者だったのです」という語り口になっている。
生きづらさを抱えているとき、「生きづらいのもそれもそのはずです。なぜならあなたは被害者だったからです」と言われたら、まずは、自分はそうかもしれないと思った人は、自分の過去を振り返る。すると、過去のいろいろな出来事を呼び出し、過去の記憶をつなぎ合わせていく。すると、まるで今までばらばらだったパズルが一つになるかのように、謎が解けたかのような新鮮な感覚を味わう。そして、新しい自分と出会った気分になる。そして、被害者がいる所に加害者がいるわけで、今度は加害者を攻撃対象の目で見るようになる。
「おれはずっと生きづらかった、抑圧されていた。それはあいつのせいだ!」という帰結だ。
被害者意識は、怒りが動機のエネルギー源になっているから、彼らはモチベーションが高く、行動的で、いきいきとしている。だから、ますます「自分=被害者」というレッテル張りは再検証されることなく、どんどんエスカレートしやすい。
特に真面目な人間ほど、まともに言葉を鵜呑みにし、極端に走り出す。
最終的に、周りの人間も、自分も破壊と破滅を味わう。
結局、自分が本当に行き詰らない限り、被害者意識は手放せない。
いや。行き詰ったとしても、この被害者意識は一種のマインドコントロールなので、気づいたとしてもなかなか簡単に抜け出すことはできない。

しぶしぶ、いままでのレッテル信奉を捨て去っても、次に今度はまた別のレッテルはないか探そうとする。
そんなことをすれば、また、自分も他人も破滅するだけだと分かっているのに、最初のレッテルに依存してしまう。人は、一度知ってしまった快楽の味を脳は簡単には忘れてはくれない。
あの、強烈な興奮と刺激を脳は欲してしまう。
だから、一度でもはまるとなかなか抜け出すのは難しい。

人間である以上、レッテルを求めてしまうのは仕方がない。
しかし、レッテル張りをした情報が正しいのか検証を怠ってはならない。
盲信をしているなら、そうしていることを自覚することだ。
多様な価値観に触れ、安易に結論に飛びつかないことだ。

自分はかつて、この世は無価値だという言葉を嘯いていた。
その頃に縋るように読んでいた本がある。
「わが闘争」のように、今は自分から読むのには注意を要するものだ。
当事の私はそれらを信奉していた。
私はそういう過去を否定しない。

ニヒリズムは楽な方法だ。レッテルを張ってすべてを分かったようにふるまえば、

それで十分なのだから。

しかし、それでよいのか。私はよいとは思わない。